仕込みを終えて一段落したところで、ふとカレンダーに目をやる。

明日からお盆だ。

毎年この時期になると、お墓や仏壇の掃除をすることが決まりごとになっている。

かつては「やらなきゃいけない義務」ぐらいの感覚だった。

線香の匂いがほのかに漂う小部屋で、位牌をひとつずつ布で拭く。

静かに揺れる線香の煙を見ながら、ふと考える。

「この供養って、いったい誰のためにやってるんだろう?」

もちろん、ご先祖様のためーーそう答えるのが筋だろう。

でも、ぼくには父方の祖父の顔も知らないし記憶もない。

そんなぼくの祈りが、本当に届くのだろうか。

そう思ったとき、気づいた。

これはご先祖様のためだけじゃない。

むしろ、残された「ぼくたち」のための時間なのかもしれない。

そういえば、38年前に亡くなった父は、とてもウィスキーが好きだった。
晩酌のときは決まってロックグラスに氷も入れず、ウィスキーをチビチビ。

昼間も、ミニボトルのウィスキーをポケットに入れて、チビチビやりながら仕事をしていた。

今思うと「おいおい、ダメだろ!」とツッコミたくなるけど、あの姿を思い出すと、不思議と心地よい。

きっと、父のそんな飲み方や笑い方も、ぼくの中に受け継がれているのだろう。

仏壇の前で手を合わせるたびに、父が焼いてくれた懐かしい味と笑い声まで蘇ってくる。

現代は、人と人とのつながりが薄くなる時代だ。

生まれた故郷を離れ、隣に誰が住んでいるかも知らずに暮らす人も多い。

タテにもヨコにも関係が断ち切られやすい社会で、自分がどこから来たのかを確かめる機会は、想像以上に大事なことだと思う。

仏壇に手を合わせるという好意は、「自分のルーツを確認する作業」だ。

いまのぼくがココにいるのは、位牌に刻まれた人たちが、それぞれの時代を必死に生きて、命をつないでくれたから。

その当たり前すぎる事実に、年に一度、静かに向き合う。

それは、忙しさの中で忘れがちな「生かされていること」への感謝を取り戻す儀式でもある。

形式に縛られる必要はない。仏壇がなくても、海外にいようとも、供養の形は人それぞれでいいと思う。

大切なのは、自分の「これまで」に、思いを馳せ、感謝する時間を持つことだ。

思えば、この夏、よりによって猛暑日にぼくのエアコンが壊れてしまった。

エアコン工事もそんなに早く来てくれそうもない。

仕方なく母の部屋に犬といっしょに毎晩避難させてもらっている。

不便なキッカケだったけど、母も近くに誰かいた方が安心して眠れるようだということがわかった。

お盆もそれに似ていて、ばらばらになりかけた個人と歴史を、そっとつなぎ直してくれる。

先祖供養とは、過去を弔うだけじゃない。

いまを生きる自分自身を、深く肯定するための時間なのだ。

そして今夜も、カウンターの向こうに集まる人たちの笑顔を見ながら、こう思うだろう。

今日も今日とて、やきとりです。

いつもありがとうございます。