「イェーイ、ワンパーーン」のこうちゃんがやって来た。

会うのは十年ぶりくらいだろうか。

体はひと回り大きくなっていたけれど、笑った顔は昔のままだった。

「ひさしぶりー」

その一声を聞いた瞬間、あの頃の空気が一気によみがえった。

こうちゃんといえば、やっぱり左フックだ。

飲み屋での乱闘、スピリタスを浴びるように飲んで暴走、通りすがりの若者をいきなりワンパンで沈めては「イェーイ、ワンパーン!」と拳を突き上げたり、

散々飲んで暴れた後は、ドブに顔を埋めてゲロ吐きながら🎵イッツオートマーティック🎵と歌ったり、、

どれも正気の沙汰ではないが、彼の拳にはなぜか場を支配する迫力があった。

あのパンチを目の前で何度も見た。

振り抜かれた瞬間の音や、周囲が一瞬で静まり返る空気。

そのたびに、こっちまで肝が冷えた。

格闘家でいうなら、北の最終兵器ボブチャンチンのロシアンフックだろう。

白くてぽっちゃりした体から飛び出す危険すぎる一撃。

入場シーンだけで格闘ファンの心臓を高鳴らせたあの衝撃に、こうちゃんのパンチは近かった。

昨夜は、久々の再会ということで閉店後も話が止まらなかった。

気づけば日付が変わり、炭の匂いが残るカウンターで、あれこれ昔話を繰り返していた。

笑っているうちに、時間が経つのも忘れた。

くだらない話から真剣な話まで、十年分を一晩で取り戻すように言葉が行き交った。

そのなかで、こうちゃんがふっと言った。

「会う人間は、ここにいるだけの人間でいいっす」

短いひと言だった。

大声でもなく、酔った勢いでもなく、肩の力が抜けた声。

その瞬間、ぼくの頭に浮かんだのは、いまの社会の姿だった。

あの頃の彼は、拳を振り回して外へと広げていた。

円を大きくすることで自分の存在を確かめているようにも見えた。

広げる、殴る、ぶつける。

これはまるで、なんだか高度経済成長の頃の日本みたいだ。

数を追い、規模を競い、広さこそが価値だと信じていた。

けれど、今のこうちゃんは違う。

「ここにいるだけの人間でいい」

数を求めるのではなく、残る人を選んでいる。

これはまさに、現代社会が直面しているテーマと同じだと思った。

SNSでは「つながり」を増やすことが当たり前になった。

友達の数やフォロワー数で自分の価値を測るような風潮。

けれど、その数の多さに疲れ、心をすり減らす人も少なくない。

日本は孤立リスクが世界一高い国だと言われているのに、画面の中では人脈が無限に広がっているように見える。

このギャップこそ、現代の病だ。

だからこそ、こうちゃんの言葉は響いた。

「ここにいるだけの人間でいい」

これは人間関係の断捨離であり、孤立ではなく選択だ。

外に向けて広げるのではなく、内に向けて絞り込む。

残る人を大事にする。

そこにこそ安心や信頼が生まれる。

社会も同じだ。

経済のパイをひたすら広げる時代は終わりつつある。

人口が減り、資源も限られるなかで、「どれだけ広げられるか」より「誰と一緒にいるか」「どうつながるか」が問われている。

広がりの時代から、絞り込みの時代へ。
拡大の時代から、持続の時代へ。

昔のこうちゃんなら、酔えばすぐ拳が飛んだ。

今のこうちゃんは、笑いと短い言葉で距離を測っていた。

彼が帰ったあと、片付けの手を止めて考えた。

自分はいま、誰を円の内側に入れているだろうか。

忙しさにまぎれて、どうでもいい関係まで抱え込んでいないか。

思い返すと、ここに残っている人間こそが、自分にとっての中心なんだと思えてきた。

あの頃は外へ拳を振っていた。
今は近くにいる人だけを大事にしている。

そう思うと、ぼくも距離の取り方を変える時期に来ている気がした。

こうちゃんの左フックは忘れられない。

だが昨夜の短い言葉は、それと同じくらい妙に残った。

ひとりの友の変化は、社会が抱える課題とも不思議に重なっている。

今日も今日とて、やきとりです。

いつもありがとうございます。