ジャッキー・チェンの「酔拳」を久しぶりに観た。
中学時代、蛇拳や天中拳、笑拳などのカンフー映画に熱狂していたが、一番好きだったのはやっぱり酔拳だ。
当時はジャッキーのアクションに釘付けだった。
動きのキレに「スゲェ!」と声を上げ、合間に挟まるコミカルな動きにクスッと笑う。
あの頃の自分にとって、アクションと笑いが一緒になった世界がたまらなかった。
昨夜、何十年ぶりかで観直すと、やっぱり熱くなる。
だけど、いまの自分には若いころとは違う部分が強く映った。
人は敗北から這い上がるストーリーに惹かれるものだ。
そしてもう一つ
人は新しい刺激よりも、慣れ親しんだコンテンツに惹かれる。
酔拳の主人公は、序盤で殺し屋にコテンパンにやられ、屈辱を味わう。
そこから、どう見ても強そうに見えない赤っ鼻の師匠に弟子入りし、地道な鍛錬を積み重ね、再び敵に挑む。
単純なストーリーなんだけど、その過程を観ていると不思議と熱くなってくる。
とくに修行のシーンは何度観ても観入ってしまう。
くるみを握りつぶす腕の筋肉、宙吊りになってからの腹筋。
汗、苦しそうな表情、息づかい、ふらつき。
その一つひとつに「努力の熱」が宿っている。
予定調和の筋書きだとわかっていても、なぜ最後まで観てしまうのか。
答えは、人は”結果”よりも”過程”に惹かれるからだ。
負ける→認める→学ぶ→繰り返す→少しずつ進む。
この手順になぜか、人は熱狂してしまう。
結末は読めても、過程の一歩一歩をもう一度なぞりたくなる。
そして、「酔拳」は、この人間の欲求をまっすぐに突いてくる映画だと思った。
「酔拳」には、笑いの要素が多い。
師匠の小言や酒の飲みっぷりには、つい吹き出してしまう。
けれど、その笑いは張り詰めた空気をやわらげて、次にくる鍛錬や戦いをより鮮やかに見せるための仕掛けになっている。
ちょうど、先生が授業の合間に面白い話を挟むのと同じ。
生徒を笑わせて空気をほぐすからこそ、本題がスッと頭に入ってくる。
で、あらためて「酔拳」を観て胸に残ったセリフがあった。
「柔を持って、剛を制す。敗北の中に勝利を得る!」
酔拳は”酔ったふり”をする拳法だが、ただ力を抜くだけではない。
ちゃんと力を抜く場面と締める場面がはっきりと分かれている。
相手が剛で押してきたら、まず柔に沈む。
いなして、空いたところにだけ力を入れる。
全部を力任せにするのではなく、入れる場所と抜く場所を選ぶ。
それこそが「柔よく剛を制す」の実践だ。
人生も同じだと思う。
負けを避けるのではなく、負けを手順に組み込む。
言い訳をして、落ち込み、それでも次の一手を選ぶ。
敗北は終わりではなく、勝利に近づくための入り口になる。
もうひとつの気づきは、人はやっぱり慣れ親しんだコンテンツに惹かれるということだった。
新しい作品に触れるのも楽しい。
けれど、つい手を伸ばしてしまうのは、昔から知っているものだ。
「酔拳」を観て「やっぱり面白い」と思えたのは、ただ懐かしかったからではない。
若いころに胸を熱くした映像を、いまの自分の視点で重ね合わせたからだ。
展開は知っている。
だけど見えてくる細部は違う。
そこにギャップが生まれ、新しい気づきになる。
慣れ親しんだコンテンツは、過去の自分といまの自分をつなげてくれる鏡でもある。
結局、「酔拳」が教えてくれたことはこうだ。
勝ちは一度で終わるが、整えた手順は次の日も使える。
敗北は終わりではなく、次の入り口になる。
予定調和のストーリーに惹かれるのは、そこに「人生の形」が刻まれているからだ。
「柔を持って、剛を制す。敗北の中に勝利を得る!」
この言葉は、負けることを恐れず、笑いながらしなやかに乗り越えていこうぜ、ということだ。
その繰り返しが、毎日の生活を支えているのだと思う。
慣れ親しんだ一本の映画が、今の自分にまた火をつけてくれた。
展開は知っているのに、胸が熱くなるのはやっぱり本物だ。
炭火と同じで、同じ火種からでも何度でも温もりは立ち上がる。
今日も今日とて、やきとりです。
いつもありがとうございます。