「いまから4名いけますか?大人2名子ども2名」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、〇〇宿をすぐ出ますのでよろしくお願いします」
電話があったのは夜の8時前。
ちょうど夕方から来たお客さんたちの注文が落ち着いた頃だ。
観光客のファミリーらしい。
湯上がりに旅先の居酒屋で一杯なんて最高だ。
子どもたちの笑い声と親の顔が浮かんできて、ちょっと楽しみになった。
ほどなくしてやって来たのは、お父さんお母さん、小さな男の子と女の子。
店に入ってくるなり男の子と女の子は鬼ごっこ。
気を引き締めていこうと、焼酎をキュッと飲んだ。
だけど、すぐに違和感を覚えた。
焼き鳥を置いても、ドリンクを出しても、テーブルから声がしない。
「ありがとう」も「わーい」もない。
いつもなら聞こえるはずの小さな歓声がなくて、ぼくは一瞬、空気になった気がした。
よく見ると、お父さんは眉間に皺を寄せてスマホを凝視、お母さんも画面から目を離さない。
子どもが「ねえ」と話しかけても返事は上の空。視線は子どもに届かない。
お父さんはちょいちょいタバコを吸いに外へ出ていく。
子どもたちは二人ともお母さんの背中にべったりくっついている。
「せっかくの旅行先なのに…」思わずそんな言葉が頭をよぎった。
せっかくの旅先で、家族で居酒屋に座っているのに、目線はスマホに奪われている。会話よりも通知。笑顔よりも画面。そう見えてしまった。
でも、ふと昔のダメダメな自分を思い出した。
子どもたちを車に乗せてるのに、平気でタバコをスッパスパ吸っていた。「くさーーい」と子どもたちに言われても「いい匂いじゃん」と笑って、消しもしなかった。
家族で外食しても、「家族サービスです」と世間にアピールするだけで、食事が終わるとさっさと一人で飲みに出かけていた。
今思えば、ひどいもんだ。
そんなクソみたいな自分を思い出したら、あのファミリーを責める気持ちは消えてしまった。むしろ「オレも同じだったな」と胸がチクっとした。
スマホが当たり前になって十数年。便利で、退屈しない。けれどその代わりに、目の前の人と向き合う時間が減っている。
ニュースでも親子の会話時間が減ってるって言ってた。
子どもが「今日ね」と話しかけても、親はスマホをいじりながら「ふーん」。声は届いても、目線は交わらない。
子どもからしたら「自分って大事にされてないのかな」と不安になるだろう。寂しさって、外にいるときだけ感じるものじゃない。
家の中でも、顔を合わせて会話がなければ、ぽつんとした気持ちになる。
思えば昔のぼくも同じだった。
目の前の家族よりも、自分の欲を優先していた。
今になって「もっと一緒にいればよかった」「もっと話とけばよかった」と後悔しているからこそ、スマホに夢中で子どもと目を合わせない親の姿を見て、妙に胸が痛んだのだと思う。
だからこそ思う。
数年後に残るのは「何を食べたか」じゃなくて「どんな会話をしたか」だ。
たとえ焼き鳥の味は忘れても、「あの時、お父さんがしょうもない変な冗談を言った」とか「お母さんが笑いすぎて泣いた」とか。
そういう時間こそ、旅の宝物になる。……いや、ほんとはウチの焼き鳥の味も覚えててほしいけど(笑)。
炭火焼き鳥があって、家族がいて、友だちがいて、会話がある。
それが一番だと思う。
無言のテーブルに違和感を覚えた夜。
それは一組の家族の話じゃなくて、今の時代の姿だった。
旅先の居酒屋は、家族の思い出の器。
炭火の赤い光の下で、声を交わし、目を合わせる時間こそが旅を形づくる。
今日も今日とて、やきとりです。
いつもありがとうございます。