市役所職員という安定を捨てて、水商売に飛び込もうとしている男がいる。
「どーした?」「頭がおかしくなったんか?」
人は彼を「無謀」と呼ぶかもしれない。
だが本当にそうなのだろうか。
実はその青年というのは、ぼくの娘の元彼だ。二度ほど会ったことがあるが、礼儀正しく、笑顔が爽やかで、まさに「娘にはもったいない」ほどの好青年だった。
市役所に勤めていると聞いたとき、親としても安心感があった。いわゆる「安定」の象徴である。
ところが、彼は内緒で退職し、水商売を始めようとしていた。娘はその事実を知った瞬間、衝撃を受け、結局ふたりは別れることになった。彼女にとって「安定した将来」が突然崩れ去ったのだから、当然のことだろう。
一般に「安定」とは、市役所のように収入が保障され、社会的信用も高く、将来が読める状態を指す。
だが一方で、決められた時間に出勤し、決められたことをこなす毎日は、自由を制限し、自己表現の場を奪うことでもある。
青年にとっては、むしろその「安定こそが不安定」だったのかもしれない。自分を殺してまで続ける毎日に、心が壊れていく危うさを感じたのだろう。
彼が選んだ水商売は、不安定の象徴だ。
売上は景気や人脈に左右され、地位も収入も保証はない。だが同時に、すべてを自分の裁量で決められる自由がある。
結果も失敗も、すべて自分に返ってくる厳しい世界。青年はそこでこそ「自分らしく生きられる」と思ったのかもしれない。
一方で、娘が彼の決断を受け入れられなかったのには、背景がある。
ぼく自身、水商売を続けてきた。
売上が落ち込んだ時期は夫婦喧嘩が絶えず、子どもたちはその空気を幼少期から見てきた。家計が不安定だと家庭も揺らぐ。娘はそれを誰よりも知っている。
だからこそ、「自分の家庭は安定させたい」という思いが人一倍強いのだろう。
つまり娘にとって「安定=安心」であり、「不安定=不幸の再来」なのだ。青年が選んだ道は、彼女にとってはどうしても受け入れられない未来だった。
この出来事を個人の恋愛話として片づけるのは簡単だ。しかし、そこには今の日本社会が抱える問題が透けて見える。
まず、「安定神話」と若者のキャリア観の分岐である。
かつては「公務員になれば一生安泰」という常識があった。
だが終身雇用や年功序列は崩壊しつつあり、「安定」を選んでも本当に将来が守られる保証はない。
それでもなお、公務員や大企業を「勝ち組」とみなす意識は強い。娘の世代にもその感覚が根付いている。
一方で、青年のように「安定の中にこそ不安定を感じる」若者も増えている。
フリーランスや起業、水商売のような自由度の高い働き方を選び、リスクを引き受けても「自分の人生を自分で決めたい」と考える人たちだ。
つまり、社会は今「安定を選ぶ若者」と「不安定を選ぶ若者」が共存し、ぶつかり合う時代にある。
さらに言えば、非正規雇用や水商売のような職業は社会的に軽んじられがちだが、コロナ禍で明らかになったのは、そうした「不安定に見える仕事」が実は地域や社会に不可欠だったという事実である。
人の心を癒し、潤いを与えるのは、多くの場合「安定」ではなく「不安定」な世界から生まれる。
もう一つ見逃せないのは、家庭環境が子どもの価値観を強く植え付けてしまうという点だ。
教育社会学では「再生産」と呼ばれるが、親の働き方や暮らしぶりは子どもの将来観に大きな影響を与える。
安定した家庭で育てば「安定が当たり前」と思うし、不安定な家庭で育てば「安定を強く求める」か、あるいは逆に「親と同じようにリスクを取る」かに分かれる。
娘は前者を選び、青年は後者を選んだ。
その価値観のずれが、ふたりを引き裂いたのだろう。
結局のところ、この話は「どちらが正しいか」という問題ではない。
安定を求める娘も正しいし、不安定に飛び込む青年もまた正しい。
それぞれが、自分の過去と価値観から導き出した道を歩もうとしているだけだ。
ただ一つ確かなのは、安定と不安定は絶対的なものではなく、人によって正反対に映るということだ。
娘にとっての安定は、青年にとっての不安定。
青年にとっての自由は、娘にとっての恐怖。
二人が交わることはなかったが、それぞれの選択は尊重されるべきだろう。
結局のところ、親父にできるのは『二人とも頑張れよ』と心の中でつぶやくことくらいだな。
今日も今日とて、やきとりです。
いつもありがとうございます。