昨夜は、いつもより少し静かな夜だった。
焼き台の前で炭をいじりながら、カウンターをぼんやり眺めていた。

客がいない時間は、長いようで短い。
そんな時に限って、誰かの笑い声が恋しくなる。

だからだろう、カウンターに客が座った瞬間、つい嬉しくなって乾杯を繰り返してしまった――そんな夜の話だ。

 

昨夜は、カウンターの客たちと乾杯を繰り返した。
一回、二回、三回。笑いの渦の中で「ハイボール、もう一杯!」と誰かが言うたび、ぼくも笑ってジョッキを掲げた。

気づけば、片付けが終わったタイミングで、座敷のフローリングの上で眠っていた。

あの冷たさと硬さが、なぜかやけに気持ちよかった。

「おーい、そんなとこで寝たら風邪ひくぞ、起きらんかーい」

遠くから声がする。うっすら目を開けると、母が心配そうに立っていた。
記憶があるのは、そこまで。

朝、母に謝ると「メガネかけたまま寝るから割れるのよ。伝票も一枚足りないよ」と呆れ顔。

えっ、ウッソ、マジで、と思ったが、まったく覚えていない。

何歳になっても母ちゃんには怒られるもんだな。
全く進歩のない男だな、オレって。

だけど、ふと思った。

こんな夜は、もうそんなに多くないだろうな、と。

怒ってくれる人や、笑ってくれる人がいる時間なんて、思っているよりあっけない。

とはいえ、「今を大事にしよう」と思っても、
脳みそってやつはなかなか素直に“今”にいられない。

「なんであの時あんなこと言っちゃったんだろ」とか、
「月末の支払い、大丈夫か…」とか。

過去と未来の間で、頭がずっとざわついている。

スマホを開けば、誰かの成功が目に入ってくる。

「あの人すごいな」と思った次の瞬間、自分のダメさに落ち込む。

気づけば、みんな“焦り”と“比較”の中で生きている。

「もっと」「まだまだ」「足りない」

そんな言葉たちに「ほら早く行けよ」と急かされているような気がする。

だからこそ、たまに立ち止まったときに、自分がどれだけ無理して走ってたかに気づくことがある。

「起きらんかーーい」

と言う母の声には、怒りっていうよりも心配が混じっていた。

叱るより先に、風邪でもひかれたら大変なことだと息子の体を案じる声だった。

人間って、きっとそうやって、何度でもやり直していく生き物なんだろうなと思った。

気持ちを切り替えて今に集中したいとき、決まって思い出す言葉がある。

「それはそれとして、今できることは?」

この一言、地味だけど、めちゃくちゃ効く。
過去を反省しても、未来を心配しても、何も変わらない。

でも「それはそれとして」と口に出すだけで、心のギアが“行動”に入る。

焦げかけた焼き鳥をひっくり返すみたいに、気持ちの向きを変えることができる。

朝、目が覚めたときもそうだった。

「飲みすぎて、またやっちまったな」と思いながら、“それはそれとして、今できることは?”と自分に聞いた。

そうだ、文章を書こう。

気づけば、炭のにおいも、支払いのことも、頭の中から少しずつ煙のように消えていった。

いまの社会は、成果とスピードを求めすぎている。

でも、どんなに忙しくても、「それはそれとして」と言える余白があれば、
人はなんとかなる。

失敗をすぐ“自己責任”に変える社会で、“切り替える力”を持つことこそ、生き延びる術だと思う。

母がよく言う。

「しっかりしなさいよ」

たぶん、これからも怒られると思う。

でも、それでいい。

飲みすぎても、寝落ちしても、伝票を落としても。

誰かが起こしてくれるうちは、まだ華がある。

起こす相手がいなくなったら、それこそ一大事だ。

反省より先に、まずは炭を起こす。

そして、また誰かに笑われながら生きていく。

それはそれとして、今日も今日とて、やきとりです。