「45年ぶりやねーー」
その言葉が、やけに印象的だった。
焼き鳥の煙の向こうで聞いたその一言に、
時間の重さと、人のあたたかさが同時に混ざっていた。
「今日10名いけるか?30分後に行くから」
いきなりの電話で、背筋がピンと伸びた。
佐賀県で料理屋をやっている先輩だった。
若いころ、「ノーバイク、ノーライフ」と言っていた人だ。
電話の声には、だいぶ丸くなった優しさが混ざっていた。
程なくして、その先輩が現れた。手には、炭酸水と缶ビールの入った袋。
「カラオケのパーティルームから来たんや。ここで3軒目。これ、良かったらプレゼント」
「いいんですか、ありがとうございます!」
ありがたくいただいた。
やがて、同窓会の仲間たちが次々と集まってきた。
60を過ぎてもみんな声が大きい。笑い方も若い。
焼き台の前で炭をいじりながら、ぼくはその様子を見ていた。
「60過ぎての同窓会か……。数年後、生きていたら、俺もこんな感じになるんだろうな」
そう思いながら。
少し遅れて現れた女性が、先輩に向かって声を上げた。
「おー!45年ぶりやねー!名刺ちょうだいよ」
先輩は照れくさそうにやや俯き加減で、「名刺は忘れてきた」と笑う。
その瞬間、女性が先輩の顔を撫でながら「アンタの顔が名刺みたいなもんやもんね」とニッコリしながら言った。
その一言が、焼き鳥の煙の中でやけに印象的だった。
名刺がいらない関係。
肩書きも会社名もいらない、ただ“その人”で通じる世界。
ああ、人って、結局は“顔”で生きていくんだなと思った。
若いころは、墨字で書かれた「〇〇組若頭〇〇」みたいな名刺に憧れていた。
完全にVシネマを見すぎだ。竹内力の新作が出たらすぐにレンタルして見ていた。
それはさておき、当時は肩書やポジションに”男の証明”みたいなものを感じていたのかもしれない。
でも、45年も経てば、その名刺も鎧もいらなくなる。
残るのは、皺の刻まれた顔と、笑いジワの奥にある人柄だけ。
つまり、人は最後、“顔”で勝負するんだと思う。
名刺よりも、どんな顔で生きてきたかがすべてになる。
「10年前はさ」と言っていた会話が、いつの間にか「45年前はね」になっている。
気づけば、時間の単位そのものが変わっていた。
若いころは、1年が長かった。
3年、5年もあれば、環境も人も変わると思っていた。
けれど、いつのまにか10年があっという間になり、45年が、まるで昨日のように語られる。
みんな「昔はこうだった」「あの頃は」と話していた。
だけど、不思議と寂しさはなく、むしろ明るかった。
おそらく、過去を語りながら、今をちゃんと楽しめているからだ。
「〇〇子って覚えてる?」
そんな声が飛び交い、テーブルのあちこちで笑いが弾ける。
いつまでも10代の時と同じようなことを語り合っている先輩たちを見て、
人って、いくつになっても“あの頃のまま”の部分を持っているんだなとおかしくなった。
歳を取るって、時間が早くなることじゃない。
ただ、流れ方がちょっと変わるだけだ。
若いころみたいに全力で走れなくなった分、
景色をゆっくり見られるようになった。
45年ぶりの再会ってのは、
ただ「久しぶり」じゃなくて、
「まだ生きちょったか」って笑い合える時間なんだと思う。
片付けしながら、ふと思った。
名刺なんてなくても、覚えてもらえる顔があるだけで十分だな、と。
炭の煙に焼かれた顔を鏡で見て、だいぶ、おっさんになったなと感じつつも、ま、それはそれで、いいかと思えた。
今日も今日とて、やきとりです。