焼き鳥屋をやっていると、毎晩いろんな言葉が飛び交う。
「大丈夫ですよー」
「あ、ゆっくりでいいですよ」
「美味しかったです」
「また来ますね」
ほんの数秒で交わされる、短い、何気ないひと言。
だけど、この”たった数文字”のおかげで、
明日のモチベーションが保たれる夜がある。
炭火の熱で汗だくになっているときも、
串の根っこが焦げて折れてしまって慌てて注文をさばいているときも、
このひと言たちはふっと肩の力を抜いてくれる。
ただの挨拶みたいなサラッとした言葉なのに、
背中をスッと撫でられたような気持ちになることがある。
言葉って、本当に不思議な力を持っているよな、と思う。
とはいえ、だ。
どれだけやさしい言葉をもらっても、
その夜の自分の心の状態によっては、まったく響かない瞬間もある。
どんなに「頑張って」と応援されても、
心がすり減っているときは、
「いやいや頑張れませんから」と思ってしまう。
「大丈夫だって」と言われても、
まったく大丈夫と思えないからこそ苦しくなる。
焼き鳥なんて焼いている場合じゃねぇ、と思ってしまう夜もある。
串を返しながら、遠くの方で誰かが笑ってる声だけがやけに響く夜もある。
そんな日は、どんな言葉も、忙しさと不安のあいだをすり抜けて、
心に定着してくれない。
結局、人の心ってそんな簡単じゃない。
言葉だけで救える夜より、
救えない夜のほうが多いかもしれない。
だからこそ、ぼくは少しだけ、言葉の扱いに慎重になった。
そんなことを考えていたある日のこと。
いつものようにスーパーで買い出しをしていた。
洗剤コーナーをすぎたあたりで、スマホが「ピロン」と鳴った。
見ると、インスタのDMだった。
ふだん、インスタは写真とか動画の投稿とストーリーだけ。
DMなんて滅多に来ない。
「思わずDMしてすみません」
「めっちゃ共感します」
そんな書き出しだった。
その後に続く文字量に「うお、めっちゃ長文」と思いながら読んでみると、相手の熱い想いが伝わってきた。
差出人は”東京で移動販売の焼き鳥屋さん”。
東京の焼き鳥屋さんが、
鹿児島の指宿にいるぼくにDMを送ってくるとはーー
まったく予想だにしなかったことだ。
シンプルにうれしかった。
でも、読み進めるうちに、
ただの「うれしい」を超えていく感覚があった。
書いてある内容は、妙にリアルで、
そして、どこか自分の姿を重なった。
「月末の支払いというプレッシャーを感じつつも、串を返す今この瞬間に、生きている実感を感じています」
「5年くらい前の年の瀬、お金に困って悪あがきなのか、、、」
「自由に動き回れるようになるのを目標にしてまして、、」
読んでみて思った。
”この人、オレと似てる”と。
会ったこともない。
顔も知らない。
年齢も、経歴も、どんな人生を歩んでいるかもわからない。
だけど、文章には”温度”があった。
その温度が、ぼくの胸を静かに動かした。
「自由になった暁には、指宿にオヤジさんの焼き鳥を食べに行きますね。」
DMの最後はその一行で締められていた。
その文章を読み終えたとき、
「よーーし、やるぞ!」と力が湧いてきた。
たった数行のメッセージなのに、胸がじんわりしてきた。
ぼくは日々、焼き鳥を焼きながら、
自分の感じたことや気づいたことをnoteに書いて投稿している。
それは「誰かのため」なんて大それたものじゃなくて、自分の頭の中の整理みたいなもの。
要するに、自分が前に進むための「メモ」みたいなものだ。
最近では、これってもしかしたら子どもたちに残せる資産的なものになるかもしれないなと思っている。
だけど、どこかの誰かが、それを読んで救われたり、励まされたり、「わかる」と」言ってくれたりする。
たとえ遠くに離れた東京にいる焼き鳥屋さんでも。
言葉って、距離を超え、境遇を超え、名前さえ知らない人の心に届くことがある。
それを、このDMが教えてくれた。
ぼくは、思った。
”温度のある言葉は、誰かの人生のどこかで灯りになる。”
それはカウンター越しの「美味しいです」にも、突然届くDMにも、「また来ますね」というひと言にも、全部に共通している。
温度のない言葉は、風のように通り過ぎるだけ。
でも、温度のある言葉は、弱くなった心の炭に、もう一度火をつけてくれる。
焼き鳥を焼くことも、文章を書くことも、
じつは目的がいっしょなのかもしれない。
誰かの”今日”を、ほんの少しだけあたためる。
たぶん、そういうことだと思う。
やっぱり、言葉の力はすごい。
なぜなら、人の心の向きを変えてくれるからだ。
とはいえ、言葉だけで救えない夜もある。
そのためーー
「温度のある言葉」をこれからも大事にしていこうと思う。
そして、これからも書き続ける。
焼き鳥を焼きながら、
誰かの今日をあたためるための言葉を。
今日も今日とて、やきとりです。