焼き鳥屋をやっていると、
たまに、店が治療室みたいになる夜がある。
串を焼きながら、
なぜか人生の弱ったところを見せ合う夜だ。
これは、
歯はまだ治っていないのに、
気持ちだけは少し楽になった夜の、
オヤジと常連チュルの話。
チュル
「オヤジ、今日なんか静かっすね。
歯、まだ痛いんすか?」
オヤジ
「いや、痛くはないんよ。
ただな、歯医者通いがもう二ヶ月目でな」
チュル
「え、そんな行ってるんすか?
もう治ったんじゃないんですか?」
オヤジ
「それがな……
詰め物が取れたと思って行ったら、
取れたんじゃなくて、折れとった」
チュル
「折れた!?
それ、けっこうショックじゃないすか」
オヤジ
「じゃっど。
還暦前になると、
目も鼻も耳も頭も、
あちこち弱ってくるのを実感させられる」
チュル
「で、もう治したんすよね?」
オヤジ
「いや、それがな。
歯はまだ折れたまんま」
チュル
「え、どういうことっすか」
オヤジ
「折れた歯も問題なんやけど、
それより先に、
なんとかせんといかんもんがあったらしい」
チュル
「なんすか?」
オヤジ
「歯茎」
チュル
「……ああ」
オヤジ
「歯科衛生士さんがな、
『これはちょっと……ですね』って
苦笑いするくらい」
チュル
「それ、だいぶっすね」
オヤジ
「このまま放っといたら、
虫歯どころじゃなくて、
歯が勝手に抜けるかもしれんって」
チュル
「怖っ」
オヤジ
「やろ。
だから今はな、
ひたすら歯茎の治療」
チュル
「オヤジ、歯医者苦手っすよね」
オヤジ
「大っ嫌いじゃ。
治療台に横になってな、
『煮るなり焼くなり、もう好きにしてくれ』
って気持ちになる」
チュル
「出た、捨て身モード」
オヤジ
「口開けてな、
『痛かったら左手あげてくださいね』
って言われるんやけど」
チュル
「上げたんすか?」
オヤジ
「絶対上げん」
チュル
「なんでっすか」
オヤジ
「上げたら負けな気がしてな」
チュル
「謎の意地(笑)」
オヤジ
「先生が優しいけん、
歯科衛生士さんたちも、
みんな優しいんよ」
チュル
「雰囲気って伝染しますよね」
オヤジ
「じゃっど。
キーンいう音も、
ガリガリいう振動も、
早く終わってくれーって思いながら、
気づいたら手すりぎゅーっと握っとる」
チュル
「想像つきます(笑)」
オヤジ
「終わったらな、
『こんなに石が取れましたよ』って
血のついたガーゼ見せてくれる」
チュル
「うわ……」
オヤジ
「でもな、
ああ、こんなんを
黙々と取ってくれとったんやな、って思うと、
ありがたくてな」
チュル
「いい歯医者っすね」
オヤジ
「じゃっど。
近所にああいう歯医者があるだけで、
ちょっと安心する」
チュル
「そういえばこの前、
足悪いおばあちゃん、来てましたよね」
オヤジ
「ああ。
あの人も同じ歯医者通っとってな。
『あそこじゃないとダメ』って言っとった」
チュル
「理由は?」
オヤジ
「前に通っとった歯医者が、
怖くて痛くて、
もう二度と行きたくなかったって」
チュル
「同じ歯医者でも、
全然違うんすね」
オヤジ
「じゃっど。
人はな、
弱っとる時に向けられた態度を、
ずっと覚えとる」
チュル
「……」
オヤジ
「歯医者におる時間って、
口開けたまま、
何もできんやろ」
チュル
「無防備っすね」
オヤジ
「焼き鳥屋も同じじゃと思う」
チュル
「え?」
オヤジ
「店に来る人、
みんなちょっと無防備じゃ。
疲れとったり、
気持ち沈んどったり」
チュル
「確かに」
オヤジ
「仕事ってな、
相手の“無防備な時間”を
預かることなんじゃろな」
チュル
「……深いっすね」
オヤジ
「歯はまだ治っとらん。
治療も続く」
チュル
「でも?」
オヤジ
「『ここなら大丈夫だ』
その感覚だけは、
もう治療された気がする」
チュル
「いいっすね、それ」
オヤジ
「今日も今日とて、
やきとりじゃ」