昨夜は、初商いだった。
予約はパンパン。カレンダーを見た時点で覚悟はしていたけれど、実際にその日が来ると、やっぱり胸の奥がざわつく。
心臓の動きが、いつもより少し早い。

忙しいのが嫌なわけじゃない。
むしろ、店をやっている身としては、予約が入ること自体はありがたい。
それでも、初商いの夜は特別だ。

何事もなく回していけるのか。
誰かを不機嫌にさせてしまわないか。
段取りが一つ狂ったら、全部が雪崩みたいに崩れないか。

怖いのは失敗じゃない。
どうしようもない瞬間が来ることだ。

遅れた理由があっても、
こちらが全力を尽くしていても、
「遅い」という一言だけで、不機嫌になるお客さんはいる。
特にファミリー客に多い。

そういうとき、説明してもどうにもならない。
謝っても、理由を話しても、空気は変わらない。
その“どうしようもなさ”が、いちばん辛い。

夕方早くから、予約客が続々とやってきた。
みんな若い。
サッカーの打ち上げだったり、久しぶりに会った友だち同士だったり、正月ならではの光景が店の中に広がっていく。

ああ、正月だな、と思った。

若い声が重なって、笑い声が弾む。
店の空気が、少しずつ温まっていく。

盆と正月といえば、思い浮かぶ顔がある。
チュルだ。

いつもなら、誰よりも早くやって来て、
何も言わずにカウンターの定位置に座る。
それが当たり前になっている存在。

でも、その夜はなかなか来ない。

「来ないってことはないよな」
心の中で、そんなことを考える。

カウンターさえ空けておけば大丈夫だろ。
そう思いながらも、どこか落ち着かない。

席の問題じゃない。
売上の話でもない。

もしかして、忘れ去られたかな。
そんなことを、ふと考えてしまう。

もちろん、そんなわけはない。
頭ではわかっている。
それでも、人は弱い。

店をやっていると、
客を待っているようで、
実は、自分が待たれているかどうかを
気にしている瞬間がある。

バタバタが一段落した頃、
ようやく、その扉が開いた。

チュルと、愉快な仲間たちだ。

すでにチュルは千鳥足。
席に着くより先に、トイレへ一直線。
仲間たちが笑いながら言う。

「もしかして、うんこ漏らしてないよね?」

その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。
過去のチュルの“うんこ事件”を思い出したからだ。

出すつもりじゃなかったのに、
勝手にスーッと出てきた、という大事件。
それ以来、チュルには
「うんこ漏らしそうな男」という
どうしようもないイメージが定着している。

でも、不思議なことに、
その話を思い出すと、なぜかほっこりする。

失敗しても、
ちゃんと笑い話になる。
評価も、正解も、関係ない。

ちゃんとダメでもいられる関係。

チュルがトイレから戻り、
みんなで大ジョッキを持って乾杯する。
ようやく、正月が始まった気がした。

そんなこんなしていると、
さらに仲間たちが雪崩れ込んでくる。

その中に、
メディアでも有名な餃子屋さんの女将がいた。

ハワイアンみたいな体格で、
会うなりギュッとハグ。
その直後、迷いなく言った。

「手伝うよ」

そう言って、
空いたテーブルを片付け、
お客さんに自然に声をかけ、
焼酎のボトルを運び、
グラスと氷を補充する。

飲食のベテランは、
言葉より先に、手が動く。

説教もない。
アドバイスもない。
ただ、そっと差し出される手。

その優しさに、
胸の奥が少し軽くなった。

チュルはというと、
相変わらず酔いすぎて、
何度もグラスを倒している。

「あーー、またやった」

みんな大爆笑。
それを笑っていた別の仲間も、
次の瞬間、グラスを倒す。

「あーー、俺もやっちゃった」

また爆笑。

失敗が、場を壊さない。
むしろ、場をあたためていく。

懐かしい面々が自然と集まり、
懐かしい話をして、
気づけば、店の中は笑顔だらけになっていた。

その光景を見ながら、
ふと思った。

正月とか、お盆に、
なぜか毎回集まってくる人たちって、
サッカーや野球の、
同じチームのメンバーみたいなものだな、と。

勝った日も、
負けた日も、
うまくいかない日も、
一緒に過ごしてきた仲間。

上手いとか、下手とか、
役に立つとか、立たないとか、
そんなことはどうでもいい。

ただ、
戻ってこれる場所がある。

そのとき、自分は何なんだろう、と考えた。

監督じゃない。
主役でもない。

たぶん、自分はグラウンドだ。

多少デコボコでもいい。
ラインが少し歪んでいてもいい。
雨が降れば、水たまりもできる。

それでも、
みんなが自由に走れて、
転んでも、また立ち上がれる場所。

自分の仕事は、
うまい焼き鳥を焼くことだけじゃない。

こうして、
気の合う人たちが自然と集まって、
失敗しても笑えて、
また帰ってきたくなる場所を
ちゃんと灯し続けることなんだと思う。

今日も、団体客の予約でいっぱいだ。
心臓は、相変わらずバクバクしている。

どうしようもない瞬間は、
きっとまたやって来る。

それでも、
誰かの笑顔の中に、
ちゃんと自分の笑顔も混ざっているなら、
この仕事は、悪くない。

今日も今日とて、やきとりです。