今朝、母ちゃんが作ってくれたハンバーグを食べながら本を読んでいる時のことだった。

何気なしにページをめくっていた指が、ある一行で止まった。

まるで、誰かにいきなり平手打ちを喰らったかのような衝撃があった。(パシッ!!)

「あなたはなぜ今のビジネスをやっているのか? その問いへの答えがなければ、ビジネスはただの集金活動になってしまう」

ギクっとした。

「集金活動」。

その4文字が、やけに生々しく、冷ややかに感じた。

もちろん、この手の問いかけは初めてじゃない。商売を長くやっていれば、ビジネス書やら自己啓発本やらで、耳にタコができるくらい聞かされてきた言葉だ。

「ミッション」とか「ビジョン」とか「パーパス」とか。「へぇー、そうなんだ、なるほどね」と思うけど、自分事として考えるとなるとめんどくさい。

でも、以前、一度だけ真剣にこの問いに向き合った夜があった。売り上げのこと、従業員のこと、将来のこと。

いろんな不安がごちゃ混ぜになった頭で、必死に捻り出した答えがこれだった。

「小学1年生の自分が、ビッグスマイルになる焼き鳥を焼くこと」

なぜ、小学1年生なのか。 なぜ、焼き鳥なのか。 実は、そこには明確な理由がある。

ぼくの父も、焼き鳥屋だった。

昭和43年生まれのぼくにとって、学校帰りの風景には、いつだって父の店があった。

通学路を歩き、店の近くまで来ると、風に乗ってたまらなくいい匂いが漂ってくる。

炭の香ばしさと、秘伝のタレが焦げる甘辛い匂い。

その匂いを嗅ぐだけで、ランドセルの中の筆箱とか教科書をガチャガチャいわせて、ダッシュしていた。お前は犬か、っていうくらい。

店に着くと、父はいつだってそこにいた。モクモクと立ち込める煙の向こうで、汗だくになって焼き鳥を焼いている。

ぼくが「ただいま」と言うと、父は決まってくしゃっとした笑顔になり、焼きたての一本を差し出してくれた。

「ほら、食え」

言葉はそれだけ。でも、それで十分だった。

熱々の串を受け取り、ハフハフと言いながらかぶりつく。

口いっぱいに広がる肉の旨みと、タレの甘み。

そして何より、父の「おかえり」という気持ちが、その一本に全部詰まっている気がした。

あの味。あの瞬間の幸福感。 父の焼き鳥を食べた時の、どうしようもなく溢れ出てくる「ビッグスマイル」。

あれこそが、ぼくの原点だ。 あれを今のぼくの手で作り出すこと。それが、ぼくが焼き鳥屋をやる理由だと決めたはずだった。

それなのに。 なんで今朝、改めてこの問いを突きつけられて、こんなにも動揺してしまったのか。 まるで、あの日の父と目が合わせられないような、後ろめたい感覚。

ちょっと考えてみた。 ぼくが、忘れっぽくてブレやすい人間だからだろうか。まあ、それも大いにある。否定はしない。

でも、もっと根深いところに問題がありそうだ。

んー、なんだろうと考えると、もしかして、日々商売という戦場で泥にまみれているうちに、「大人の事情」というノイズが、あまりにも大きく鳴り響くようになってしまったと言うことではないだろうか、と思った。

商売をしていると、どうしても数字がついて回る。「原価率」「回転率」「客単価」。 毎晩、レジを締めながら数字と睨めっこをするうちに、いつの間にか父の背中ではなく、通帳の残高ばかりを見るようになっていた。

そこへ来て、世間の流行だ。 「

2時間飲み放題、料理8品付きで税込3800円!」 そんな同業者の声を聞くたびに、頭の中で計算機が弾かれる。 (うちは今、客単価がこれくらいだ。飲み放題をやれば、効率よく稼げるんじゃないか? みんなやってるし、それが今の正解なんじゃないか?)

悪魔の囁きが聞こえる。 「時代はコスパだよ」 「こだわってる場合じゃないよ、まずは集客だよ」

そうすると、どうしても迷いが出る。「うちは4000円でやりますか」なんて、対抗策を考え始める自分がいる。 そうやって、他所の店の真似事をして、数字を合わせにいく。

ハッとした。 これだ。これが、本に書かれていた「集金活動」の正体だ。

あの日の父は、ぼくに「集金」するために焼き鳥を焼いていただろうか?

「これを食わせておけば、将来面倒を見てくれるだろう」なんて計算をして、あの一本を差し出しただろうか?

絶対に違う。 父が焼いていたのは、愛だ。 父が渡してくれたのは、記憶だ。 だからこそ、50年経った今でも、その味と匂いはぼくの細胞に刻み込まれている。

もしぼくが、原価率や効率ばかりを気にして、魂の入っていない焼き鳥を焼いたとしたら。 それを食べた子供は、50年後にその味を覚えているだろうか?

答えは否だ。絶対に覚えていない。

「安かったね」とは言うかもしれないが、それはただのカロリー摂取だ。心の栄養にはならない。

ぼくは危うく、一番大切なものを捨てるところだった。そこで、心の中に住む最強の審査員「小学1年生のぼく」を呼び出してみた。

「あのさー、客寄せのための飲む放題で出てくる焼き鳥、うまいと思うか?」

「他の店よりも安いでーす、って謳って作られている一本、ワクワクする?」

小1のぼくは、残酷なほどに正直だ。

「おっちゃん、何言ってんの?あの時のお父さんの焼き鳥、そんな味がした?」

「ぼくが食べたいのは、お父さんが焼いてくれたような、一口食べたらコレコレって思える焼き鳥だよ」

ガツンと殴られた気がした。 そうだ。その通りだ。 ぼくが目指しているのは、あの日の父の背中だ。 あの匂い、あの笑顔、あの味。 それを再現し、今度はぼくが誰かの記憶に刻み込む番なのだ。

そう考えると、飲み放題のプランなんて、どうでもよくなる。 小手先のテクニックで集めた客に、あんな魔法はかけられない。

「おいしい」の探求は、父への追伸のようなものだ。

「父ちゃん、昨日の焼き鳥でも小1の俺は笑ったけど、今日の焼き加減ならもっと笑うかもよ」

そうやって、あの日の記憶と対話しながら、同じ答え(笑顔)の質を高め続けていく。 それこそが、ぼくが「考え続けなければならない」ことの本質なのだ。

商売は、いい時ばかりじゃない。 心がポキリと折れそうになる瞬間は、これまでに何度だってあった。 そんな時に、またこの問いに戻ってくればいい。

「なんのためにやってるんだっけ?」

自分自身に問いかける。 すると、店先に漂っていたあの匂いと共に、父の笑顔が蘇る。 「ほら、食え」 そう言って差し出された一本の串。

そうだった。 あれを受け取った時の、あの幸せを繋ぐためだった。 そう思い出した瞬間、冷え切ったエンジンに、熱いガソリンが注ぎ込まれる。

「しょうがねぇな、父ちゃんをがっかりさせないように、もう少しだけ頑張ってみるか」

だから、今日気づいた一番の発見はこれだ。

「なぜビジネスをやるのか?」という問いは、自分を縛り付ける厳しいテストなんかじゃない。

これは、日々の激務ですり減り、ガス欠寸前になった自分を救い、原点に立ち返らせてくれる「給油所」なのだ。

走り続けていれば、燃料は減る。

人間だもの、迷うし、忘れるし、ブレる。

だから、毎日、あるいは毎朝、この問いという給油所に立ち寄る必要がある。

「今の自分、ガス欠してないか?」 「父ちゃんの味から、逃げてないか?」

そうやって、タンクを満タンにする。

新しい答えを探すために考えるんじゃない。

「今の自分が、あの日の記憶からズレていないかを確認する」 そのための、大切な儀式なんだ。

さて、そろそろ焼き鳥の時間だ。鶏肉を切りたくって、串を打とう。炭を熾そう。

今日も、世間は大人の事情で騒がしいけど、ぼくの店の中だけは、関係ない。

カウンターには、腹を空かせた小学1年生のぼくが待っている。そして、その背後には腹巻き姿の父がニカっと笑っている。

「今日の焼き鳥、父ちゃんのよりウマイかもよ」 そう胸を張って言える一本を、今日も焼く。

集金活動? 知ったことか。 ぼくが焼いているのは、ただの鶏肉じゃない。 いつか誰かの思い出になる、愛そのものだ。

今日も今日とて、やきとりです。