選挙前独特の、どこか浮足立っているような、それでいて静まり返っているような空気感。そして、肌を刺すような「ちょ寒」な風。 そんな金曜日の午後だった。
店の予約台帳には、ポツンと一組だけの名前がある。一組といっても、団体ではない。人数的には二人だ。
「おいおい、どうなることやら……」 ため息交じりに店を出て、仕込みのための買い出しに向かった。
スーパーの明るい照明の下、カゴに鶏肉や野菜を放り込みながらも、頭の中には常に灰色の雲がかかっている。
換気扇の工事代金、日々の支払い、そして来客の少なさ。 ゆったりと買い物をしているふりをしながら、心の中は少しもゆったりしていなかった。
必要なものをあらかたカゴに入れ、写真アプリに保存しておいた「買い忘れ防止リスト」を見ようとスマホを取り出した時だ。 画面を見て、ビクッとした。
着信が4件。
「あらら、全く気づかなかったな。誰からかな?」
履歴をスクロールする。
一件は、よく焼き鳥を買いに来てくれるご近所さん。これはいい。問題は、残りの着信だ。 そこに表示されていた文字列は、僕の平穏な日常を一瞬で破壊する破壊力を持っていた。
『熊本国税局』
ご丁寧にも、留守電まで入っている。
スーパーの通路の真ん中で、僕は凍りついた。買い物カゴを持つ手が微かに震える。 恐る恐る留守電を再生する。
「……ご確認していただきたいことがあります」
事務的で、感情の読めない声。 何? 何? 何〜? なんなのけ〜? 脳内を疑問符と恐怖が駆け巡る。心臓がバクバクと音を立てる。 怖すぎる。
あまりにも怖すぎて、人間とは不思議なもので、一番安全な場所に逃げ込もうとする。僕は震える指で、まずはご近所さんに折り返しの電話を入れた。
「あ、ごめんだけど、3時半に焼き鳥30本お願いできる?」
ご近所さんの明るい声に、少しだけ現実に引き戻される。時計を見ると2時40分。
「3時半……帰って炭を起こして焼くとなると、時間的にギリギリだな」
「さっきから電話するんだけど、なかなか繋がらなくて。よかったー連絡が取れて。じゃあ頼むね」
急に忙しくなってきた。
「急がないと」 この忙しさは救いだ。余計なことを考えなくて済む。
セルフレジに進み、商品をピッ、ピッとスキャンしていく。機械的な電子音。 そのリズムの中で、ふと我に返った。
「そうだった、熊本国税局だった!」
ここで逃げてはいけない。今、折り返しの電話を入れておかないと、後々もっと大変なことになるぞ。 僕は覚悟を決め、商品のスキャンを続けながら(そうでもしないと立っていられなかった)、履歴にあった番号をタップした。
「あーー、折り返しのお電話ありがとうございます。指宿税務署に代わってこちらからご連絡させていただいたのは、消費税の未納のことなんですけど……」
未納? 担当者の言葉が理解できない。
消費税の分納願いを出して、毎月支払ってきたはずだ。その最後の引き落としが先月末だった。
僕は「消費税がやっと終わったー! これで年末年始をすっきりとした気分で迎えることができるぞ」と、一人で祝杯をあげたい気分で安心しきっていたのだ。
「あれっ、確か、先月末で終わったはずですけど……」 スマホを肩と耳で挟みながら、慌ててバッグから通帳を取り出し、ページを開く。 日付を追う。数字を追う。
……ない。 引き落としの記載が、どこにもない。
「……あらら、引き落としされてない!」 「ごめんなさい、ぼくはてっきり引き落としされているものだと勘違いしていました」
セルフレジの近くにいたスーパーの店員さんと目が合った。
中年男性が、レジ前で通帳を広げ、電話口で謝り倒している。どう見ても「訳あり」だ。気まずくなって、僕は少し売り場の方へ逃げた。 逃げたところで、現実は変わらないのだけれども。
「今日、残りを支払っていただければ、延滞金は〇〇円で済みますけど……」
担当者は淡々と解決策を提示してくれる。
しかし、その提案は今の僕にはあまりにも残酷だった。
これから帰ってすぐに炭を起こし、焼き鳥を30本焼かなければならない。銀行に行く時間はない。 いや、そもそも。 パッと払える金額ではないのだ。
僕は大きく息を吸い込み、正直に言った。
「済みませんけど、今日はないです」
見栄もプライドもなかった。ただの事実として、ないものはない。
「ない? そうですか……。じゃあどうされます?」
相手の声色が少し変わった気がした。呆れられたのか、同情されたのか。
「今月末にはお支払いしますので、支払い用紙を送ってください。延滞金はそこでまた計算してもらえれば助かります」
僕がそう言うと、熊本国税局の担当の人も察してくれたようだった。
電話の向こうには、僕がてんてこ舞いでセルフレジを「ピッ、ピッ」させている音や、スーパー特有のアナウンスの声が聞こえていただろう。
「お忙しいところありがとうございます」 最後にそう言って、相手は僕を気遣ってくれた。
電話を切ると、どっと疲れが出た。
ここへきて、月末の資金繰りが大きく狂ってきた。
先日壊れた換気扇の工事代金。
そして、終わったと思っていた消費税の未払い分。 買い物袋はずっしりと重い。その重さが、そのまま人生の重さのように感じられた。
「おい、俺、乗り切れるのかい?」
思わず、心の声がボソッと漏れた。 スーパーの自動ドアを出ると、外の風はさっきよりも冷たく感じられた。
店に帰ると、感傷に浸っている暇はない。
すぐに焼き鳥の準備だ。 炭に火を入れる。
赤々と燃える炭を見ていると、少しだけ心が落ち着く。
これは僕の聖域だ。 ご近所さんの焼き鳥を焼き、串打ちをし、開店の準備を整える。 「やるしかない」 腹を括ったその時だった。
店を開けると、予想外のことが起きた。
予約は一組だけだったはずなのに、若いカップルが来店し、ご近所さんが顔を出し、見慣れない人たちがやってくる。 いつの間にか、店は忙しくなっていた。
そんな中、ひときわ賑やかな若い女性4人組がやってきた。
「4人なんですけど、大丈夫ですか〜?」 「どうぞ、奥の個室へ」 空いていた個室に案内すると、彼女たちは部屋に入るなり歓声を上げた。
「うわー! こんな広いお部屋いいんですかー!?」
テンションが爆上がりしている。 どうやら、地元客じゃないっぽい。 注文を取りに行くと、一人は関西弁バリバリだし、一人はハーフのような顔立ちをしている。とにかくみんな、突き抜けるように明るくて元気だ。
「焼き鳥の盛り合わせです」 「うわー、おいしそー!!」 「揚げ出し豆腐お待たせしました」 「キャー! すごーい!」 「冷しゃぶサラダです」 「えー! 何これ、めっちゃ美味しそう!」「豚足です」「わー、あたし、初めて見たー、おいしそー」
何を出しても、彼女たちは全力でリアクションしてくれる。
途中から「え、そんなに?」と僕が疑ってしまうほどに、彼女たちの感動は純粋で、真っ直ぐだった。
厨房で焼き鳥を焼きながら、その歓声を聞いているだけで、さっきまでの「国税局ショック」が薄れていくのがわかった。
しばらくして、彼女たちがメニューを広げて質問してきた。
「指宿の焼酎ってどれですか?」 「『利右衛門(りえもん)』ですよ。
女性に人気なのが、こちらの『赤利右衛門』です」 「じゃあ、それで! そのソーダ割りでお願いします!」
彼女たちは初めて飲む指宿の焼酎を、本当に美味しそうに飲んでくれた。 そしてお会計の時だ。
「あの、赤利右衛門ってどこに売っているんですか?」
一人の子が目を輝かせて聞いてきた。 僕にとっては、いつでも近くにある当たり前の焼酎だ。
「コンビニでもスーパーでも、この辺ならどこにでもありますよ」 そう答えると、彼女は言った。 「その赤利右衛門の瓶の写真が撮りたいです!」
「え、これを?」 「はい! これですよ!」
僕は焼酎棚から5合瓶を取り出して見せた。
すると彼女たちは「わー! これこれ!」とスマホを取り出し、パシャパシャと写真を撮ってはしゃぎ始めた。 ただの焼酎の瓶を囲んで、こんなにも笑顔になれるなんて。
「関西から来られたんですか?」 僕が聞くと、彼女たちは顔を見合わせて笑った。 「いえ、関西は一人だけです。私たち、自動車学校の合宿が一緒で!」
へぇー、そうだったんだ。
じゃあ、最近お友達になったグループってことか。
ずーっと前から友達みたいに仲良しだったから、意外だった。 住む場所も、育った環境も違う4人が、指宿という地で偶然出会い、免許取得という同じ目標に向かって励まし合い、こうして僕の店で笑い合っている。 それは、なんだかとても奇跡的なことのように思えた。
その瞬間、僕の中で何かがカチリと切り替わった。
さっきスーパーにいた時の僕は、完全に「自分のこと」しか考えていなかった。 金がない。支払いがある。怖い。どうしよう。
自分の欠乏、自分の不安、自分の保身。 矢印がすべて自分に向いていたから、世界は暗く、重く、苦しい場所だった。
でも今、目の前には、ただ純粋にこの瞬間を楽しんでいる彼女たちがいる。 僕が焼いた焼き鳥を「美味しい」と言い、僕が選んだ焼酎の写真を撮って喜んでくれる。
僕は、彼女たちの「楽しい夜」を作るための黒子だ。 一旦支払いのことは忘れよう。今はただ、お客さんの笑顔のために動こう。
そう腹を決めて働いていたら、不思議なことに、いつの間にか「借金もなんとかなるような気」がしてきたのだ。
これは単なる現実逃避だろうか? いや、違うと思う。
人間は「ないもの(お金)」にフォーカスすると弱くなるが、「あるもの(価値・喜び)」にフォーカスすると強くなれるのだ。
僕にはまだ、炭を焼く腕がある。店がある。そして、こうして喜んでくれるお客さんがいる。
今日、僕は図らずも一つの実験をしたことになる。
スーパーのセルフレジで「済みません、今日はないです」と国税局に正直に言ったこと。
あれは、カッコつけるのをやめた瞬間だった。
「ビジネスは”生き方”そのものである」。
最近読んだ本に、そんな言葉があった。 嫌なものを嫌だと認め、自分の弱さを認め、清く手放した時、正しい距離感が見えてくる。
僕がお金を持っていないのは事実だ。
でも、だからといって僕の人生が終わるわけではない。
虚勢を張るのをやめて、「参った、今は無理だ」と認めたことで、変な力が抜けたのかもしれない。 だからこそ、彼女たちの笑顔が、真っ直ぐに心に届いたのだと思う。
やはり、自分のことだけ考えていたらダメだ。
商売とは、自分のお財布の中身を心配することではなく、目の前の人の心を温めることだ。 その順番さえ間違えなければ、きっとお金は後からついてくる。……いや、ついてきてくれないと困るのだけど。
帰り際、彼女たちは「美味しかったです! 免許取ったらまた来ます!」と手を振ってくれた。 その笑顔は、どんな栄養ドリンクよりも僕を元気にしてくれた。
店を閉め、静かになった厨房で、僕はボソッとつぶやいた。
「まあ、なんとかなるか」
数時間前の「乗り切れるのかい?」という悲壮な問いかけに対する、これが今の僕の答えだ。
国税局の電話で凍りついた背中を、合宿免許の女子たちの熱量が溶かしてくれた夜。
昼の冷や汗と、夜の笑い声。
この予測不能な『落差』があるから、人生おもしろいのかもしれない。
自分のためではなく、誰かの「おいしい」のために。そして、今月末の支払いのために(笑)、
今日も今日とて、やきとりです。