「よし、準備万端、やったるでー」

厨房のステンレスが西日を反射して鈍く光る午後5時前。

僕はいつものように気合いを入れた。

今日は夕方5時半から団体の予約が入っている。

それも「厄除け」の宴会だという。神妙な顔をして厄を払いに来る人たちだ、こちらも粗相があってはいけない。

そんな僕の真面目な性格を見越してか、早めに仕込みを終わらせて待ち構えていたその時だった。

「こんばんはー、予約してた〇〇ですけど」

5時を少し過ぎた頃、そのグループはやってきた。予定より早い到着だが、まあいい。やる気は満タンだ。

しかし、その中の一人が抱えていたものを見て、僕の笑顔は少し引きつったかもしれない。

のしの付いた、立派な焼酎の一升瓶。 嫌な予感がする。いや、予感というか、確信に近い。彼は悪びれる様子もなく、むしろ少し誇らしげにこう言ってきた。

「これ、厄除けで神社でもらったんすけど、持ち込みしてもいいですか?」

……は? 僕は心の中で「What?」と叫んだ。いや、口には出していないはずだ。

でも、顔には思いっきり「意味がわからない」と書いてあったと思う。

飲食店に、神社でもらったとはいえ、自分たちの酒を持ち込んで飲もうとするその神経。 もちろん、丁重にお断りした。

「申し訳ありませんが、お持ち込みはお断りしているんですよ」

「え、ダメなんすか? ご利益あるのに」と言わんばかりの顔をしていたけど、ぼくは心の中でこうつぶやいた。

「そのありがたーい焼酎は、ぜひお家でゆっくり飲んでくださいねー」

なんとか大人の対応でその場を収めたな、と思ったら、今度は、幹事らしき男性がメニュー表も見ずに聞いてきた。

「ここ、飲み放題とかないんですか?」

「……今、飲み放題やってないんですよ、すんません」

持ち込みに、飲み放題。 来た早々、このコンボだ。

なるほど、このグループは「厄除け」と言いつつ、なるべく安く済ませようという魂胆が見え隠れする。

いや、待てよ。厄除けっていうのは、本来、身銭を切って、派手にパーっとやって、厄神様に出て行ってもらうもんじゃないのか?

セコく済ませようとしたら、厄神様だって居心地が良くて居座っちゃうんじゃないか?

最初のお客さんが「アレ?」という感じだと、その日はなぜか、似たような空気を纏ったお客さんが続くことがある。飲食店の不思議なジンクスだ。

「今日はそんな日になりませんように」 僕は心の中で柏手を打ち、祈るような気持ちで、ファーストドリンクの生ビールを注ごうと冷蔵庫を開けた。

ジョッキに手を伸ばす。 その瞬間、指先に走った違和感に、背筋が凍った。

「……ぬるい」

キンキンに冷えているはずのジョッキが、生暖かい。 嘘だろ? 恐る恐る冷蔵庫の温度表示に目をやる。 表示が、消えている。

「えーー、うっそーー!」

厨房の中心で、僕は絶望を叫んだ。

昨年末のスチームコンベクションオーブンの故障、先日の換気扇の故障。立て続けに起きた「厨房機器・死の連鎖」。 まさか、冷蔵庫、お前もか。

しかも、なんでいつも営業中なんだ。なんで今なんだ。これから団体客のビールをガンガン冷やさなきゃいけない、このタイミングで。

完全にパニックだった。 厄除けに来た客の厄が、店主に感染したのか? 今年の俺、マジでやばいんじゃね?

そうこうしているうちに、店内のセルフオーダーのタブレットから「ティろりろりーーん、てぃろりろりーーん」と軽快な注文メロディが鳴り響く。

焼き鳥は焼かないといけない。煙は目にしみる。でも、冷蔵庫が気になって仕方がない。

食材はどうする? ビールは? 明日の仕込みは?

頭の中が真っ白になりながら、僕は震える手で、いつも世話になっている「何でも屋さん」に電話をかけた。

「ごめん、忙しいところ、あのさ、冷蔵庫の電源が落ちているんだけど、どうしたらいいか、わからなくってさー」

事情を話すと、彼は15分ほどで駆けつけてくれた。神様に見えた。

彼は真剣な表情で冷蔵庫の裏を覗き込み、ブレイカーを確認し、テスターを取り出した。 その横で、僕は炭火の前の焼き場と冷蔵庫の間を反復横跳びしながら、半泣きで訴えた。

「最近さあ、スチコンも換気扇も壊れてさあ、ついに冷蔵庫だよ。今年のオレ、なんかの呪いにかかってるのかも……」

仕事どころじゃない。僕の心はもうポッキリ折れかけていた。 閉店して、お祓いに行こうか。真剣にそう考えていた時、何でも屋さんが顔を上げた。

「やっぱり、故障?」

「いえ」

彼は不思議そうな顔で、一本のグレーのコードを持ち上げた。

「コンセント、抜けてますね」

「……はっ?」

時が止まった。

「うっそ?」 「いや、マジです。ここ、抜けてました」 「なんで?」 「さあ……掃除の時に足が当たったとか?」 「マジで?」 「マジです」 「故障じゃ、ない?」 「故障じゃ、ないです」

彼はコードを差し込んだ。ブォン、と低い唸り声を上げて、冷蔵庫が息を吹き返した。温度表示が点灯する。

「なんだ、よかったー! 故障じゃなくてーー!」

全身の力が抜けた。へなへなと座り込みそうになった。

何でも屋さんは「じゃあ、商売頑張ってください」と、爽やかな笑顔を残して風のように去っていった。

コンセントが抜けていただけ。 僕のパニックはなんだったんだ。今年の不運とか、厄とか、そんな大層なものじゃなかった。

ただの「うっかり」だったのだ。

一人厨房に取り残された僕は、安堵感と同時に、なんだかおかしくなってしまった。 「なにやってんだ、オレ」 そうつぶやくと、少しだけ肩の荷が下りた気がした。

それから程なくして、例の「厄除けグループ」のメンバーの一人が遅れてやってきた。 「ごめんごめん、遅れたー」 入ってきた男性の顔を見た瞬間、僕の脳裏に、強烈なデジャヴが走った。

「……あれ?」

白髪は増えている。目尻にはシワもある。

でも、そのニカっと笑う口元。 間違いない。

20年くらい前、店によく来てくれていた、あの「長渕剛好きの男」だ。 当時は、長渕が球場ライブの時に乗っていたようなジープに乗り、髪型も服装も完全に長渕のオーラを出していた。

店に入ってくると、僕の顔を見るなり長渕のモノマネをしてくるのだが、これがまあ、絶妙に似ていない。 でも、その「似てなさ」が面白くて、憎めない男だった。

彼も、焼き場にいる僕に気づいた。 目が合う。 その瞬間、20年の月日が消し飛んだ。

彼は、あの頃と全く同じ、似ていない長渕のモノマネで言った。 「久しぶりっ」

それにつられて、僕の口からも自然と同じ言葉が出た。 僕もまた、精一杯の長渕風で。 「おっ、おーーー、久しぶりっ」

これは、20年前からの僕たちのお約束的な挨拶だ。 打ち合わせも何もない。コンセントが繋がった瞬間、電気が通るように、僕たちは「あの頃」に戻っていた。 それを今でも自然とやれるなんて、と自分でもおかしくなった。

「っていうかさ、もう厄除けの歳になったんだ」 僕が笑うと、彼は頭をかいた。

「そうなんすよ。ぼくもだいぶ白髪が増えてきて、ガタがきてますわ」

「お互い様だよ、オレなんかさっき冷蔵庫が壊れたと思って死にそうだったわ」

二人で笑い合った。

さらにその後、もう一組の予約客が来店した。30代前半くらいの女性だけのグループだ。 その中の一人が、僕を見てペコリと頭を下げた。

 10年くらい前、うちでアルバイトをしてくれていた女性だった。

当時はギャルメイクで「マジだるい~」なんて言っていた彼女が、今は落ち着いた雰囲気の、立派なお母さんになっていた。

でも、僕の顔を見て「へへへ」と笑うその屈託のない笑顔は、ひとつも変わっていない。

「元気そうで、うれしいです」 そう言ってくれる彼女の言葉が、胸に染みた。

その夜の営業が終わって、片付けをしながら考えた。

今日は散々なスタートだと思った。 持ち込み、飲み放題、冷蔵庫のトラブル。 まさに「厄日」だと思った。

でも、違った。

スチコンは壊れる。換気扇も壊れる。冷蔵庫のコンセントだって抜ける。機械というものは、いつか必ず物理的な繋がりを失うものだ。

人間だってそうだ。若かった長渕ファンは白髪混じりのおじさんになり、ギャルはお母さんになり、僕も歳をとった。 形あるものは変わり、古びていく。

けれど、目には見えない「コンセント」もあるんだな、と思った。

20年間会っていなくても、顔を見た瞬間に通じ合える「お約束」。 10年経っても、当時の笑顔に戻れる関係。

この店という場所には、無数の「見えないコンセント」が張り巡らされているのかもしれない。

普段はそのコードの存在すら忘れている。 でも、ふとした瞬間に誰かが帰ってきて、プラグを差し込んでくれる。

すると、僕という古びた機械に、また熱い血が通うのだ。 「まだやれるぞ。まだ、ここで焼き鳥を焼いていていいんだぞ」と。

この仕事を長く続けていると、しんどいことも多い。

機械は壊れるし、体はきつくなるし、変なお客さんにイライラすることもある。 でも、今日みたいに、思い出したかのように帰ってきてくれる人たちがいる。

僕がここで煙にまみれて「定点観測」のように立ち続けているからこそ、彼らは帰ってこれるし、僕は彼らの変化を見届けることができる。

あの厄除けの焼酎、やっぱり一杯くらい飲ませてもらえばよかったかな。 いや、違うな。 今日のこの再会こそが、僕にとって一番の「厄除け」だったんだ。

久しぶりに腹の底から笑って、昔話をして、気がつけば「今年のオレ、やばいんじゃね?」という不安は、煙と一緒に換気扇の向こうへ消えていた。

抜けていた冷蔵庫のコンセントを、もう一度しっかりと確認する。 うん、大丈夫。ちゃんと繋がっている。 僕と、あのお客さんたちとの縁と同じように。

「よし、明日もやったるでー」

誰もいない厨房で、僕は小さく呟いた。

冷蔵庫の低いブーンという音が、心なしか頼もしく聞こえた夜だった。

今日も今日とて、やきとりです。