1. 軋む肉体と、泥の記憶
日曜日の朝。
身体中の節々が悲鳴を上げ、その軋みで目が覚めた。
「あいたたた……」
喉の奥から漏れるのは、言葉というよりは古びた機械の異音だ。最近壊れた換気扇の音と似ている。
前日のハードワークが、一晩明けて一気に押し寄せてきた。筋肉の一本一本が、昨日の重労働を鮮明に記憶し、重い鉛を流し込まれたかのように布団に沈み込んでいる。
この感覚には覚えがある。
ふと蘇るのは、まだ「未来」の「み」の字も考えたことなく、有り余る体力だけを路頭に売っていた若き日の記憶だ。
筋トレ代わりだと自分に言い聞かせ、日雇い労働の現場に身を投じていたあの日々。
朝靄の中、薄汚れたワゴン車に揺られ、行き先も告げられぬまま山奥へと連行される。車内に漂うのは、長年染み付いた汗と安煙草、そして希望を捨てたようで捨てていない、そんな思いが入り混じったような独特の臭い。
「ここはどこや。火曜サスペンス劇場で死体が見つかる場所じゃないか……」
そんな場違いな切なさを胸に、手渡されるのは一本のスコップ。
そこから始まるのは、本当で本気の「穴掘りタイム」だ。 目的も、完成図も知らされない。ただ、掘る。
「ここほれわんわん」 皮肉を込めて呟きながら、地面に鉄を突き立てる。馬鹿の一つ覚えみたいに、ひたすら掘って、掘って、掘りまくる。
土を削り取る衝撃が手首から肘、そして肩へと伝わり、脳を揺らす。次第に思考は麻痺し、自分自身が穴を掘るための機械になったような錯覚に陥る。
山奥の夕方、カラスがカァカァと不吉な音を立てて鳴いている。その風景を見ていると、いつも訳のわからない虚しさが胸の奥からせり上がってきた。
ようやく終わった帰りのワゴンの中。隣では、親父たちがワンカップ大関をシュポッと開ける。 酒のつまみはハイライトだ。
安い酒に、安いタバコの煙。歯が抜けた汚い笑顔で、今日一日のわずかな稼ぎを笑い飛ばす親父たち。 それを見ていると、ますます得体の知れない虚しさが込み上げてくる。
オレは、一体何を掘っているんだろう。 オレは、一体どこへ向かっているんだろう。
あの時、泥にまみれて感じていた絶望的な虚しさと筋肉痛。それが今、指宿の静かな朝、布団の中で感じているこの痛みと、どこか不気味なほど地続きのように繋がっている気がした。
2. 現実の咆哮と、格闘家の矜持
そんな感傷に浸り、もう一度毛布を被り直そうとした時、現実の咆哮が聞こえた。 ケージの中から、犬が吠え出したのだ。
「いい加減に起きてくれ。腹が減ってしょうがない。そして、ここから早く出してくれ」
その真っ直ぐで無慈悲な欲求は、過去の記憶も今の痛みも、すべてを無効化する。
「わかった、わかったから」
よろめきながら起き上がると、不意に今日が堀口恭司の試合の日だということを思い出した。 こうしている場合じゃない。慌ててU-NEXTを開いた。
画面の中では、ミドル級の男たちが生命の火花を散らしていた。 ゴツッ、ゴツッ。 マイクが拾う生々しい打撃音。肘打ちや左ストレートが放たれるたびに、空気が震える。
体のでかい選手たちの破壊力は、見ているこちらの背筋を凍らせるほどだ。 だが、心を打ったのはその後の勝者の態度だった。
「オレのパンチは最高だけど、あいつは倒れなかった。あいつのタフさにリスペクトする」
血を流し、拳をぶつけ合った末に、自分を讃え、同時に相手をも讃える。これこそが格闘技の、そして男の勝負の面白いところだ。
そして、堀口恭司がリングに上がる。
ランキング8位の堀口に対し、相手は6位。フィジカルの差は歴然としていた。 いつもの強さを見せてくれるのか。祈るような気持ちで見守るなか、試合は終始、壮絶な打撃戦となった。
驚愕の事実は、試合後に明かされる。 堀口は序盤で拳を骨折していたのだという。 格闘家にとっての拳は、侍の刀であり、料理人の包丁、そしてぼくにとっては焼き鳥を打つ指先と同じだ。
それが折れた時、普通なら心まで粉々に砕ける。 だが、堀口は違った。折れた拳を、彼は迷いなく、何度も何度も振り回し続けた。
結果は、判定勝ち。 終始安定した強さを見せつけたその執念に、言葉を失うほどの感動を覚えた。
一方、あのワゴン車の親父たちは、勝負すらしていなかった(あるいは、自分から負けを認めていた。)
3. 言霊の魔法
試合後のYouTube動画。
包帯を巻いた拳をカメラに向けながら、彼は「ガハハハ」と豪快に笑っていた。
かつてワゴン車の中で見た、歯の抜けた親父たちの虚しい笑顔とは対照的な、すべてを肯定する王者の笑顔。
「ファンが心配していますよ」という問いかけに、彼はことなしげな顔で、そして確信に満ちた声で答える。
「これくらい大したことない。6週間もあれば治る。その間はできることをやればいいだけ。大丈夫」
その言葉には、一切の悲壮感がない。あるのは、揺るぎない自己信頼と、未来を引き寄せる意志の力だ。
「言霊っていうのがあって、チャンピオンになると言ったらなれるし、大丈夫と言ったら大丈夫になる。そういうもんだ。だから、今回も大丈夫」
シンプルにかっこいい。その一言に尽きる。
自分に勝ち、対戦相手に勝ち、それでいてファンの輪を広げていく。 この流れ、自分の商売に、自分の人生に応用できないものだろうか。
4. 焼き鳥の煙と、オレの戦場
一人で店を回し、煙に巻かれながら鶏を焼く毎日。 カウンター越しに見える客の笑顔の裏で、足はパンパンに腫れ、指先は脂で荒れ果てる。
時折、あのワゴン車の中で感じた「虚しさ」の亡霊が、煙に混じって足元をすり抜けていくことがある。
「こんなことをして、何になるんだろう」
そんな問いが頭をよぎる夜もある。
だけど、リングの上で笑っていた男のようにありたい。
骨折を「大したことない」と笑い飛ばすような潔さを持ちたい。
「大丈夫」という言葉で、目の前の苦境を力技でねじ伏せる気概を持ちたい。
穴掘りに明け暮れ、カラスの声に心を削られていたあの若者に、こう言いたい。
「その痛みも、その虚しさも、全部無駄じゃないぞ。いつか誰かを熱くさせるための仕込みなんだぞ」と。
そして、今この場所に立ち止まりそうになっている自分にも、強く言い聞かせる。
筋肉痛も、仕事の疲れも、全部生かされている証拠。
あの日、意味もなく掘り続けた穴は、今のぼくを支える強固な土台になっている。
だから、大丈夫。なんとかなる。
鏡の前で、少しだけ不敵な笑みを浮かべてみる。
「フフッ」
さぁ、新しい1週間の始まりだ。
ゲージの中から犬がぼくをじーっと見ている。
「おっちゃん、頭おかしくなったんちゃうか?」と言いたげな顔をしている。
「よし、戦場に行ってくるぞ、今日も元気で待っててくれよ」
犬は「何言ってんだ?」みたいな顔をしている。
ガハハ、と堀口のように笑い飛ばして、次の「穴」ではなく、次の「光」を掘り当てに行こう。
今日も今日とて、やきとりです。