1. ロケットスタートの誤算

週の始まり、月曜日。その幕開けは、決して悪くなかった。いや、むしろ「よかった」と言っていい。

「おーーっと、今夜は月曜日からロケットスタートか?」

炭を熾しながら、そんな予感に胸を弾ませていた。

19時半に予約していたお客さんから電話が入り、「17時半に行ってもいい?」と言われたときは、正直少し慌てた。

ワンオペのぼくにとって、予定の前倒しは戦場への招集ラップが早まることを意味する。だが、そのお客さんが「福の神」だったのかもしれない。

彼らのカンパイを合図に、外国人カップル、観光客のカップル、さらに男女3人組のグループが、まるで吸い寄せられるように次々とやってきた。

「みんな、やる気満々じゃん。よーし、こっちも戦闘モードだ」

炭火を操り、串を返す。滴る脂が炭に落ち、ジュウと音を立てて香ばしい煙を上げる。

この「ちょうどいい忙しさ」こそが、商売人の生きがいだ。脳内には心地よいアドレナリンが駆け巡り、ぼくは間違いなく、今夜の主役だった。

ところが、嵐が去るのが、あまりに早すぎた。

2. 19時の凪(なぎ)と、70年代の胸キュン

さー……っと、波が引く音が聞こえたような気がした。 19時。店内に残ったのは、ぼくと、真っ赤に燃える炭火と、虚空を回る換気扇の音だけ。

「うっそーん……。まだ19時!? かよ」 思わず声が漏れた。

どういうことだ。今日は変な日だな。 さっきまでのバタバタ感が嘘のように、店内には70年代歌謡曲が虚しく響き始めた。

流れてきたのは、かつて誰もが口ずさんだあのメロディ。 歌詞のひとつひとつが、やけに鮮明に聞こえてくる。別に今、恋に破れたわけでも、センチメンタルな思い出に浸っているわけでもない。

それなのに、あまりに暇すぎて、あまりに静かすぎて、そのメロディが胸に沁みすぎてくる。

「なんだこれ。胸がキュンキュンするじゃないか」

還暦前の男が、誰もいない居酒屋で歌謡曲に胸を締め付けられている。客観的に見れば滑稽だが、当の本人は真剣だ。

この「キュン」の正体は、甘酸っぱい記憶などではなく、静寂という名の不安だった。

ふと外に目をやると、指宿の夜は驚くほど早く更けていた。 近隣の店の看板も、まばらだ。 「今日は暇だ」と見越して、早々に休みをとったのだろう。

それは経営判断として、間違いなく正解だ。

「オレも休めば良かったかな……」

一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐに首を振った。

休んでいる場合じゃない。明日の支払いが、あと5万円足りないのだ。 人影一つないアスファルト。街灯の光だけが、誰も通らない道を虚しく照らしている。

その光景を眺めていると、どこからか声が聞こえてくるようだった。

『今日はもう終わりだよ』 『明日のことを考えてもどうしようもない。諦めて寝なさい』

冷たい夜風が、そう囁いている気がした。

3. イケメン二人組と、8人席の空白

そんな時、店の電話が鳴った。予約の電話だ。

「21時に二人いけますか?」 「もちろん、大丈夫です!」

声が裏返りそうになるのを抑えて答えた。

それからの2時間は、まさに「凪」だった。 静かすぎて、心も体も凍えてしまうんじゃないかと思うほど、店内の空気は冷え切っていた。

70年代の歌手たちは、相変わらずぼくの胸をかき乱し続けている。

21時ちょうど。約束通り、二人組がやってきた。 長身で、シュッとしたイケメン。パリッとしたスーツを着こなしているところを見ると、ビジネスで指宿に来たのだろう。

彼らは店に入ってくるなり、ガランとした店内をぐるりと見渡して言った。

「あれ、誰もいない。月曜日だからっすか?」

(……でた。) やっぱり言われた。

そんなことになるんじゃないかと思っていた。

予約して入った店が、小汚い(良く言うと、味がある)居酒屋で、しかも客はゼロ。そこに還暦前のおっさんがポツンと一人で立っていたら、誰だって不安になる。

「やってしまったか?」と顔に出す客は多いが、この若者は見事なまでに直球で言語化してきやがった。

ぼくはもう、開き直るしかなかった。

「2月は大体、こんなもんです。いつもね」 どこの席に座ろうか迷っている二人。ぼくは努めて明るく声をかけた。

「どこでもお好きなところ、大丈夫ですよ」

すると彼らが選んだのは、一番奥にある広いテーブル席だった。8人は座れる、宴会用のスペースだ。

「……二人で、そこ、必要?」 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

まあ、いっか。他に誰もいないんだし。 彼らはそこで、仕事に関する熱い話を始めた。 焼酎を煽り、カクテルを飲み、炭火で焼いた自慢の焼き鳥を頬張る。

「美味しいですね」「また来ますよ」

そんな言葉を残して彼らが帰っていった後、ついに本当の「完全な無」が訪れた。

4. TikTokの神様と、劇薬の笑い

レジを締め、暗い厨房に一人。 頭の中は、さっきまでのイケメンたちの笑顔ではなく、「5万円どうする?」という問いで埋め尽くされていた。

頭が痛い。胸が苦しい。 お客さんは喜んでくれた。それは事実だ。

でも、銀行の引き落としは、お客さんの満足度では決済できない。明日の朝、非情な残高不足の通知が届くかもしれない恐怖。

「とほほ……」

昭和の漫画のような独り言が、ぽろりとこぼれた。

スマホの青白い明かりだけが、情けないぼくの顔を照らしている。

その時、指が勝手にTikTokのアイコンを叩いた。現実逃避という、無意識の防衛本能だった。

そこで出会ったのが、あの動画だった。 下りエスカレーターに乗っている人の顔が、カメラを通すと強制的に歪む「変顔アプリ」の動画。

最初はぼんやり眺めていた。だが、カメラはエスカレーターで下りてくる男の顔を捉える。

さらに、その後ろに立っている、何も知らない赤の他人の顔まで、境界線を越えた瞬間にグニャリと変顔に変えてしまった。

「……ップ……クックっ、ぶはっはっは! ギヤハハハ!」

こらえきれなかった。 理不尽なほどに歪んだ、東南アジアの誰かもわからない男の顔。

さっきまで胸を締め付けていた歌謡曲の切なさも、「2月は大体こんなもん」という開き直りも、「5万円どうする?」という絶望も、全部その変顔が吸い込んで消し去ってくれた。

ぼくは狂ったように笑った。誰もいない店内で、一人で。 笑いすぎて息が苦しくなり、目尻に涙が浮かんだ。 必死でその動画を保存し、見知らぬ彼をフォローした。

笑いは、落ち込んだ心を癒してくれる。いや、癒すなんて生ぬるいものじゃない。それは、重力で沈み込んでいた心を、無理やり「変顔」にして引きずり上げる、最強の劇薬だった。

5. 「まぁいっか」の夜明け

笑いすぎて、さっきまでの頭痛がだいぶ軽くなっていることに気づいた。 「まぁ、いっか」 思わず呟いた。いや、本当は「まぁいっか」で済まされる金額ではない。

5万円が足りないという事実は、1ミリも動いていない。 でも、今のぼくには「まぁいっか」と思えるだけの酸素が、胸の中に残っていた。

5万円は足りない。それはどうしようもない。 とりあえず、看板を消して、早く寝よう。 たっぷり笑って、少しだけ軽くなった頭で、明日の戦いに備えよう。

指宿の夜風はまだ冷たい。 でも、ぼくのスマホの中には、いつでもぼくを救ってくれる、歪んだ顔の救世主がいる。

さぁ、明日も美味しい焼き鳥を焼くぞ!

結局、嘆きながらも足は明日の方を向いている。 5万円の不足に震えながらも、手は炭火の熱さを求めている。 「

とほほ」は、諦めの言葉じゃない。

それは、次の一歩を踏み出すための、ぼくなりの深い呼吸なのかもしれない。

焼き鳥の呼吸、壱の型、とほほ。

今日も今日とて、やきとりです。