1年くらい前だったか、昔からたまに来てくれる50歳ぐらいの介護士がいるんだけど、その彼が初めて連れてきた30代ぐらいの若者がいた。
少しおどおどしたような、それでいてどこか斜に構えたような、よくいるタイプの若者だった。 だが、彼が、うちの店にとんでもない伝説を残していった男だったのだ。
出来の悪い冗談かと思うかもしれないが、紛れもない事実である。 事の発端はこうだ。
その日は、先輩の一人の還暦祝いだった。ケーキを出して、わーっとみんなでお祝いをして、いい雰囲気で盛り上がっていた。
しかし、酒が回ってきた頃から、その30代の若者は急におかしくなり、主役である還暦の先輩に食って掛かり始めたのだ。
声が大きくなり、ドンとテーブルを叩いたりするようになった。でかい音がするたびにそのテーブルに目をやるようになった。
「大丈夫かな、アイツ」
せっかくのお祝いムードが悪くなり始めた矢先、彼はあろうことか客席のテーブルのど真ん中で盛大に放尿し始めたのである。
ジョボジョボジョボ、僕もお客さんたちも、まさか、テーブルの上に放尿するとは思っていない。
なんか、音がするな、って感じだったと思う。僕もそうだった。
すると、還暦を迎えてご機嫌だった先輩が気づいた。
「おいおいおい!」
皆が必死に止めに入り、一緒にいた先輩たちが平謝りしながらテーブルの掃除をしてくれた。
先輩の一人が帰り、男はそのまま寝てしまったのだが、しばらくして彼がむくっと起き上がり、トイレへと向かった。
そして今度は、トイレのドアの真ん前で再び放尿し始めたのである。
もう一度言う。
放尿だ。
犬のマーキングじゃない。いや、犬のマーキングといえば、うちの愛犬(オス)も立派な「マーキング王」なのだが、それと良い勝負、いや人間なのだからそれ以下の凶行である。
常識的に考えれば、あり得ない。
だが、ここは深夜の焼き鳥屋だ。酒という名のガソリンが入れば、人間のブレーキなんてものは簡単にぶっ壊れる。
長年店をやっていれば、多少の粗相には耐性ができている。
それにしても、テーブルのど真ん中と、トイレのドアの真ん前なんていう絶妙なポジションで2回も用を足すなんて、いくら酔っていても普通はできない。
よほどの恨みでもなければ、そんな器用な真似は不可能に近い。あるいは、無意識のうちに何かしらの強烈なメッセージを店全体に叩きつけたかったのだろうか。
翌日、真っ青な顔をして菓子折りを持って平謝りに来たのは、なんと昨日お祝いの主役だったその「還暦の先輩」本人だった。
「うちの若いのが本当に申し訳ありませんでした」と。 深々と頭を下げる彼を見て、ぼくは「まあ、酒の失敗は誰にでもあるから(限度というものはあるが)」となだめるしかなかった。 実際、先輩に罪はない。連れてきた責任はあるにせよ、彼自身が直接店を汚したわけではないのだから。
問題は、当の本人である「おしっこマン」が、その後1年間、ただの一度も顔を出さず、謝罪すら一切なかったという事実だ。
逃げたのだ。
自分の不始末の尻拭いを先輩に押し付けて。 気まずいのはわかる。二度と敷居を跨げないと思うのも無理はない。
だが、大人として、社会人として、自分で蒔いた種は自分で刈り取るのが筋ではないか。
あの湖のように広がったおしっこを、真夜中に一人でオエオエ言いながら、モップがけさせられたこちらの身にもなってほしい。
そして昨日。 あの日、平謝りに来てくれた還暦の先輩と一緒にテーブルのおしっこを拭いてくれたもう一人の介護士の先輩が、本当に久々に飲みに来てくれた。 炭火の前で焼き鳥を焼きながら、ふと当時の思い出話になった。
「いやあ、あの時は本当にすいませんでした」 「ほんとだよ(笑)。あの湖の掃除、深夜にモップ掛けして地獄だったんだから」
どうしてあんなところで用を足したのか。 笑い話として昇華させたつもりだったが、改めて一人で思い返してみた。
あの「おしっこマン」。 彼もまた「介護士」なのだ。
人に寄り添い、人の尊厳を守り、人をケアすることを生業とするプロフェッショナルである。
そんな人間が、一番身近な先輩を裏切り、他人の空間や気持ちに対して何のケアもできないという現実。
「人をケアする人間が、誰よりも人の痛みに鈍感である」というグロテスクな矛盾。 人間ってのは、どこかでバランスを取らないと生きていけないのだろうか。
昼間、他人の下の世話をし、他人の人生の重みを背負い込む。 認知症の高齢者に向き合い、時には理不尽な言葉や暴力的な態度を投げつけられ、それでも笑顔でケアを続ける。
そのプレッシャー、ストレスはいかばかりだろうか。想像を絶するものがあるはずだ。 聖人君子のような顔をして、他人に寄り添い続けることの反動が、夜の酒場で、あのような無惨な形で噴出してしまうのか。
もしそうだとすれば、ぼくは彼を声高に責めることはできないのかもしれない。 表向きは立派な仕事をしている人間が、裏ではあんなにも醜悪な姿を晒す。
これは、彼個人の問題というより、人間という生き物が抱える、どうしようもない「業」のようなものに思えてくる。
僕たちは皆、どこかに「おしっこマン」を飼っているのではないか。 立派な顔の裏側に、ドロドロとした、誰にも見せられない醜さを隠して生きている。 それが、たまたま酒の力を借りて、最も不適切な場所で漏れ出してしまっただけ。
そう考えると、あの日の彼の行動は、ぼくに対する嫌がらせではなく、彼自身の魂のSOSだったのかもしれない。
限界まで張り詰めた糸が切れた瞬間の、どうしようもない破綻。 もちろん、だからといって許されることではないし、深夜に黙々と悲惨な湖の掃除をさせられた身としては決して看過できるものではないが。
しかし、不思議なものだ。 スマートで効率的なAI時代には排除されてしまうような、こういう理不尽でイラッとする「人間の泥臭いノイズ」。 綺麗事だけでは済まされない、どうしようもない矛盾と醜さ。
そういうものを、丸ごと飲み込んで、ため息一つ吐きながらモップをかける。 そんな「泥臭い止まり木」が一つくらい、この世の中にあったっていいじゃないか。
AIには絶対に作れない、重力のある生々しい現実がここにはある。 人間の弱さ、醜さ、そしてそれらをひっくるめて許容する「素」の空間。
綺麗に整えられたデジタルな世界では、彼はただの「ルール違反者」として即座に排除されるだろう。アカウント凍結、出入り禁止、一発レッドカードだ。ミスは許されないし、ノイズは速やかに削除される。
でも、ここは実社会の、それも煙たい焼き鳥屋だ。
迷惑をかけられ、腹を立てながらも、どこかで「人間ってしょうがないよな」と苦笑いしてしまう。
この、割り切れない感情の余白こそが、人間が人間である証なのかもしれない。 白か黒かで判定できない、グレーな部分。そこにある体温のようなものを、ぼくは信じたい。
彼が二度と店に来ないのは、彼なりの恥じらいなのか、それともあの夜の記憶すら欠落しているのか。 真相は永遠にわからないままだ。
もし前者だとしたら、彼は今でも、あの夜の出来事に苛まれているのだろうか。 だとしたら、あまり思い詰めないでほしいとも思う。次に来た時には、もう二度とあのような失敗はしないだろうから。
今日もぼくは、炭を熾し、鶏を焼く。
様々な人間がやって来ては、それぞれの重力を降ろし、またどこかへ帰っていく。 その中には、誰にも癒せない傷を抱えた人もいるだろう。
昼間の顔とは全く違う、ドロドロとした感情を抱え込んでいる人もいるはずだ。 それでいい。それでいいのだ。ここは、鎧を脱いで「素」に戻る場所なのだから。
もしまた、あいつがしれっと店に現れたら、ぼくはどうするだろうか。 塩撒いて追い出すか。 それとも、「お前、あの時はほんと勘弁してくれよな」と笑い飛ばして、一本の冷えたビールを出すか。
たぶん、後者だろう。 なぜなら、ここには「完璧な人間」なんて一人もいないからだ。彼も、そしてぼく自身も。 皆、どこかで失敗し、誰かに迷惑をかけながら生きている。
……なんて壮大な哲学的なことを考えながら、ぼくは今日もまた、無心で床をモップがけしている。 所詮は、人間だもの。
今日も今日とて、やきとりです。